|
ジェームス・マーフィー(James Murphy、1970年2月4日 - )は、アメリカのミュージシャン、DJ、音楽プロデューサー、エンジニアである。ソロプロジェクトLCDサウンドシステムのボーカルであり、インディーレコードレーベルのDFAレコーズの創設や、音楽プロデューサーチームThe DFAの活動でダンス・パンクの第一人者として知られている。現在はDJとしてツアー・作曲の他、音楽プロデューサーやレコーディング・エンジニアとして活動を続けている。 == 来歴 == === キャリア初期 === 1970年2月4日、アメリカ・ニュージャージーで生まれる。子供の頃はジョン・レノンなどを愛聴していたという〔Snoozer #079, 2010, P62-P65.〕。若くして両親を亡くしたジェームスは、クリスマスに叔母から11歳の時から欲しかったオックスフォード大辞典シリーズをプレゼントされる。傷心のジェームスは救われた気持ちになったといい、言葉や言葉による表現にのめり込んでいく。その後ジェームスは脚本家を目指すようになり、そのために学校に通っていた〔Cookie Scene vol.41, 2005, P24-P29.〕。21歳の時には人気コメディー『となりのサインフェルド』の脚本チームに抜擢されたものの自らオファーを断っており、人生の失敗の一つだったとインタビューで答えている。 ジェームスはLCDサウンドシステム結成までに3つのバンドを経験している。1988年から1989年はFalling Manというバンドで活動、アルバム『''A Christening''』を残して解散している。1992年からはPonyというバンドでドラマーとして活動する。1994年にアルバム『''Cosmovalidator''』をFire Recordsからリリースするが、同年解散している。1995年から1997年にかけてはSpeedkingというバンドでドラムを叩いており、4枚の7インチシングルをリリースした。また彼はスティーヴ・アルビニ(''Steve Albini'')やボブ・ウェストン(''Bob Weston'')の下でエンジニアとして修業していた経験があり、レコーディングの仕事も積極的に行なっていた。1998年にはSub PopからリリースされたSix Finger Satelliteの4thアルバム『''Law of Ruins''』でプロデューサーを務めている。1990年代後半、ジェームスはバンド活動を辞めて自分のスタジオを作りレコーディングの仕事で生計をたてるようになる。そんな最中エンジニアとして参加していたデヴィッド・ホルムス(''David Holmes'')のアルバム『''Bow Down To The Exit Sign''』製作中に、アンクルとして活動していたティム・ゴールズワージー(''Tim Goldsworthy'')と出会う〔Snoozer #035, 2003, P102-P107.〕。意気投合した2人は共通の目標となったロックとダンスミュージックのクロスオーバーを目指し、マンハッタンのローワー・イースト・サイドのクラブでパーティーを始めた。1999年ジェームスとティムはプロデューサーチームThe DFAの活動を始める。2001年6月、レディオ4(Radio 4)のシングル「''Dance to the Underground''」、翌年のアルバム『''Gotham!''』をプロデュースする。この年マネージャーのジョナサン・ガルキンと出会い、9月に3人でDFAレコーズ(''DFA Records'')を立ち上げる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェームス・マーフィー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 James Murphy (electronic musician) 」があります。 スポンサード リンク
|